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シマのいぶき とは
ご覧いただき誠にありがとうございます。
奄美では集落のことをシマという。「レポート シマのいぶき」は、協賛各社の協力を頂きながらシマの活性化に繋がるような取組みをとり上げて、広くお伝えすることでシマ興しのお手伝いをするものです。
シマの暮しに密着した情報は、U・Iターンを模索する皆様にも役立つことと思います。
島の情熱をレポートしていきますのでよろしくお願いします。
2009年は薩摩が奄美へ侵攻して400年の節目であり、さらに、皆既日食の年で奄美を見つめなおす良い機会でした。
道の島の歴史については、今後も発信していきます。
続きは、各ページへどうぞ
(注)奄美のシマには、遠い昔、この地に移り住み集落を形成していった血縁集団のシマダテ(集落世界の創造)の昔話が残っており、興味深いのは、さらに、その面影のうかがえる集落が残っていることである。
日本の歴史にこの道の島々が、少なからず関わってきた事も近年分かってきた。
また最近言われてきた、限界集落の問題は、この地域では、ずいぶん前から叫ばれてきたことであり、人が豊かに生きること、混迷する世界の経済至上主義から新しい時代へのヒントが内在すると確信している。
島未来研究室とは、
本HPに示すような活動、島に関する調査研究や島社会への提言を行っていきます。
2010年は、さらに島の発展に寄与するため、研究から実現を図るべきものを抽出して行動を起こすべく、島未来研究舎を興した。
提言は、関係機関へ働きかけると共に地元紙への投稿も行っている。例えば、2009は、以下を南海日日新聞に掲載していただき奄美パークにおいてパネル展を実現した。
道の島と島口、今年こそ発信の年
道の島の海路を調べていて気がついた。
つい最近まで奄美においては舟に野菜や薪を積んで大きな集落へ行商に行っていたと聞く。物を運ぶのに海上輸送は便利である。昔はなおさらである。
母に聞いたことがあるが母親が幼い頃は与論の茶花湾に荷揚げや風待ちで何隻もの交易船が停泊していたという。 灯台のない時代は当然目印となるものをアテながら航行したはずである。道の島においては、少なくともその寄港地、その周辺は、海から見た特徴などを航海者や荷受先等の関係者の間で共通の呼称で呼ばれていなければ発展しえない。
従って、津々浦々の名は昔からそこを利用する船乗りには定着していたと考える。
琉球語と日本語は同じ古語から枝分かれしたらしい。その古語による呼称に後世漢字が当てられた。この辺の地名がいつ頃こうなったかは専門家に教えていただくとして、島々の海岸付近に残る似たような地名はこのような理由ではないだろうか。
ちなみに710年に平城京遷都をした元明天皇は全ての地名を漢字2文字にするよう命を下した。また、鎌倉時代から江戸初期までは海面は今より2メートルくらい高かったということも考慮しなければならない。
いずれにしても消えつつある島口をしかも正しい島口発音の地名等は歴史研究に欠かせないと思う。そこで、早急に古老の発音を記録しておくべきではないだろうか。
手花部の津代、地元ではシチロといわれる。今年この地は薩摩侵攻400年にあたる。
今年も戦没者の慰霊祭を4月12日に行う。今回はより多くの人に知って頂けるよう勉強会も計画している。島の歴史を学ぶとともに戦没者を供養する心を持ち続けたい。
島口を自在に操り誠の心を持つ。かつてはそれゆえ差別されたがそれこそが島人と思う。
さらにまた今年は既に周知のとおり皆既日食の年である。この機会に明かになってきたこの島の歴史を広く発信するチャンスと考えている。
観光の島を目指すならそのようなイベントを行うべきである。さらに郡都を自負するならこの機会を群島のために島伝い観光のプランや各地域の特産品、島々に関する本や資料を一堂に集めて発信すべきである。
島の唄者はこのときのメインイベントを担うことになるだろう。二度とないこのチャンスに島が燃え上がることに期待したい。
地球・自然共生の時代、シマこそリゾート! 文明の波打ち際、奄美のシマの奄美らしい発展を!
歴史に誇りを、未来に夢を!
1565 太平洋東進航路が発見された。これを大圏航路という。
スペインのアンドレス・デ・ウルダネータは、フィリピンのマニラを出発、黒潮に乗って日本近海を北上。北緯40度あたりに吹く偏西風に乗り、東進、メキシコまでの20,000kmを130日で走破。こうして、スペイン、メキシコ、フィリピンを結ぶ往復の航路が完成した。時に中国は、銀の大消費国になっており、往路にメキシコ銀、復路に香辛料、それに加えて生糸、絹製品、陶磁器などが運ばれ大いに栄えアカプルコ交易と呼ばれた。
ついでに言えば、このような下地があってアメリカへの移住者が当ても無く西へ、西へと開拓していったわけではなく、もちろん未開の地がそこにあったことにもよるが地の果てには、交易港も可能であるという新興国としての夢もあったかもしれない。
すると、マニラは、ポルトガル全盛時に既に世界的規模だった日本の石見銀山を含め東西の交易の十字路となって世界有数の交易港となった。
◎この頃に道の島は、世界的な道の島になっていたのではないか。
喜界島は、大圏航路の上の寄港地として栄えなかったか、それゆえ大宰府の出先機関のように発展したのではないか、さらには、それ以前に南海貿易の中継基地としてある集団が大勢で移住してきたか、その場合東シナ海側の「津」も重要な基地となる。そうすると平家伝説と符合して面白い。1523にニンポウで大内氏と細川氏が戦い大内氏が勝利し交易を独占する。その敗者の細川氏が別ルートを開拓してたりして?
集団移住は、聖徳太子の頃の大陸からの技術者集団の移住の例があり可能性はあると古代妄想している。
是非 お楽しみ下さい!!
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