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ようこそマイビーチリゾートへ マリンスポーツ・ダイビング・・・
東京、大阪より2時間程度、奄美空港から15分で夢時空

小さなマリンパラダイスへの入り口です
施設のほとんどがお手製で、飛行機代、宿泊、島料理、遊び全て含めて旅費合計58,000円以内を実現。
南の島で遊ぶ人のために作りました。
おそらく日本で一番海に近い海遊びの基地
海のベテランのオーナーがいろんな条件から捜し求めて、年間波静かで安全なこの場所に決めて、手造りした施設です。
目の前のサンゴの海はシュノーケリングが楽しめます。魚の餌付けもできます。
まったく泳げない10歳以下の子どもでも親子で餌付けが楽しめるような安全でお手軽なツールもあります。例えば小さなお子様用ライフジャケット、海の中が見える窓付きのボディボードなどなど。泳げない大人も使えますよ。また海遊びの得意な皆様も楽しめる道具もいろいろです。
特にこれから「海」を始める人たちのための体験コースはお任せください。
お問合せは、メール:amaminao@kaizokujuku.inか
即電話は、090-9577-4175へどうぞ
代表者のお名前、年齢、予定日、人数、ご希望のメニューや楽しみ方を教えてください。ご予算に合わせた極上の遊び方を提案いたします。
施設風景

島のゆったりとしたときの流れに癒やされるも好し、美しい海でアクティブにマリンスポーツを楽しむも好し、家族で南の島に青い思い出を描くのもまた好い
海辺のビーチベット、木陰のハンモック
ビーチorビーチサイドテラスでのバー
ベキュー、釣った魚、島料理に舌鼓
ご希望のスタイルで、極上の休日をどうぞ

ここでは、ネコでもリゾートしています。
少人数・予約制なので、まったりとしかも遊ぶときは、たっぷりと楽しむ。マリンスポーツの初心者でも贅沢な楽しい時間を過ごして頂けます。





スクール等については、海族塾スタイルへ 遊びのメニューと価格については、海族塾メニューへどうぞ また滞在中のランチについては、食事処遊楽里へどうぞお進みください。
海族塾時々ニュース
奄美市が行っているシマ博覧会でも、マリンキッズが募集されることになりました。夏休みの自由研究も同時に募集することになります。正式発表は、6/17ですが、日程が決まり次第お披露目いたします。今年は、親子スクールにも力を入れて行きます。40-50代でも必ずウィンドサーフィンなどができるようにします。
国営放送で、平清盛、テンペストと歴史物が放送され、人気のようです。すると道の島の役割も垣間見えます。
平家の繁栄は海外交易が元になっており鎌倉時代も盛んに交易が行われている。
武士の時代は、源平の力によってなされたことが分かる。
この交易は主な相手である中国の都合によるところが大きい。
遣唐使で開拓された海の道もしばらく途絶えていたが、
主に南路で復活したようである。
つまり今の上海あたりから鹿児島の坊津を目指し九州の西海道を通り大宰府および堺を目指していた。何と平氏は、薩摩半島も受領地にしていたようです。
その後中国の「宋」は南に追いやられ「南宋」となるのだが、韓半島との交易は海道を通じて行われており、奄美の貿易商人たちは南海諸国、中国、日本との交易で栄えたはずですが、次第に地の利を沖縄に定めたと考えられる。そのために奄美の遣唐使の南島路の頃や平家の頃の豪族勢力は沖縄に移ったと考えられる。
その後中国は交易の拠点ハブ湊を琉球とした。すなわち、この時代琉球は最も交易で栄えたと考えられる。道の島の拠点港も栄えたはずである。
さて、面白いのは、伝説によると平家は、最初喜界島に入り後に奄美大島を征服しているが沖縄の北山王すなわち今帰仁城の主も伊平屋島から来たといわれていることです。
外から来る征服者のパターンは同じです。
琉球が栄えた頃は、アユタヤ王国は既に栄えており交易相手国であった。東南アジア、タイあたりまでは海の民にはよく知られていたのである。ゆえに関が原の戦いの頃にアユタヤに日本人町ができるのは不思議ではないのである。

道の島古道の再生事業が本格的に始まりました。報告して行きます。位置関係が分からなかった昔、尾根が山越えの道になることは想像できる。全国そうであったと思う。また、山城とは立派な建物が有った訳ではなく土工跡が残されていることを念頭に踏査します。

海族塾のキャンプ、この夏は、台風などの影響でご案内できませんでしたが、窓から海の見える高床式の涼しいテントです。
サバイバル体験に、親子の絆を深めるために、また旅の宿にご利用ください。
マリンキッズ、今年もやります。2年間続けた子は、戸惑いも無く前年より上手にできました。たぶんに体の成長はそれだけで道具を楽に扱えるようになっているからだと考えています。そのようなこともあって天候によっては小さい子にもいろいろ触らせて挑戦させます。
ファミリーで海遊びに来られる方もいらっしゃいます。三世代のケースも。お孫さんからおばあちゃんまで全員シュノーケリングで魚にえさをあげに行きました。感動です。
小学生は、マリンキッズの体験版もやりました。みんな大喜びです。ご家族の夏の思い出にご利用ください。!
4月中には募集を始めます。メール出のお問合せは受け付けています。
私のライフワークである海の寺子屋の卒業生が大学生になる頃、彼らが島を自慢し、それで友達を増やし、郷土愛を認識することと思います。
究極のタラソテラピーシステム
潮風、海水、砂に埋まること、など古くから体にいいとされてきました。昔は、毒にあたったときなど土に首まで埋めたとも言います。体の毒素が土の中の酵素に吸いだされるそうです。そのようなことから考え出され炭やおがくずなどで砂蒸し温泉のようにしたのが酵素風呂です。ずいぶん前から聞いていたのですが面白いタラソシステムを考えたので作ることにしました。
おそらく世界初でしょう。
海水入浴、砂蒸し、酵素風呂、炭酸泉、露天風呂と休憩所もしくは、ハンモックを体感できるよう改装中です。
体験してみてください。
おまけに炭酸泉は、マイクロバブルを使うのですが、もう1つ空気のマイクロバブル風呂があって、それのマイクロバブル水を海水に戻すと海が浄化されます。かき養殖などで実証済みなのですが、このコストをお風呂でまかなうというエコシステムでもあります。

手作りコーナーを充実させました。

これが通称かくれ浜です。地元では「ナーバマ」とか言われているようです。これを観光地として売り出したのはもう15年くらい前になりますか・・・。話題になるまで時間がかかりましたが、この干潮時にしか現れない砂浜は、与論や沖縄の沖合いに出る浜と違い潮の干満による激流の不安がない点です。そしてそのヘリが急激に落ち込んでいるけれど海峡部に見られるように恐怖を感じる深さではないことです。この砂だけの斜面から海面越しに空を見上げると不思議な世界です。今年は、力を入れて案内します。

これは民宿です。格安で提供しています。

マリンキッズの様子です。最後は、親子でバーベキューなどを楽しみまス。親子スクールも低価格で提供します。



子どもたちは何も知らない状況から夏休みの間に、10~15回通っている間にカヤックやウィンドサーフィンで手花部湾を横断するくらいになりました。
以下の道の島の歴史に興味のある方は、シマのいぶきへどうぞ
先日、赤木名城について現地で学ぶ会がありまして、参加してまいりました。
要するに、琉球が栄える以前に奄美を中心に栄えた時代があったようです。中でもこの地は、重要な場所だったと考えられている。この湾の入り口の両岬の山頂、今井崎や蒲生崎にも山城跡が見つかってるそうで笠利湾は、いくつもの城が取り囲むようにして存在していたと言うことになる。つまり城の津である。津城である。赤木名城の頂上からは、太平洋の一部が見える。あの辺にも見張り台があって、狼煙で連絡が取れる様になっていたのではないか。すると、海底から中国との交易の途中と考えられる沈没船が見つかったもうひとつの重要な湊と考えられる焼内湾もまた、狼煙で繋がっていたかもしれない。つまり風によって、あるいは、北上・南下によって使い分けられていたとも考えられるのである。さらに、赤木名城の調査では、弥生時代まで遡る遺跡が見つかっている。この山すそには、今でも岩の間から湧き出る水がある。縄文海進でも利用できたはず。
ますます古代妄想は面白くなってきました。素人が集まった学会ができそうである。真実が分かるとがっかりしたりするのでこれを古代妄想ガッカイと呼ぶことにしよう。
1565 太平洋東進航路が発見された。これを大圏航路という。
スペインのアンドレス・デ・ウルダネータは、フィリピンのマニラを出発、黒潮に乗って日本近海を北上。北緯40度あたりに吹く偏西風に乗り、東進、メキシコまでの20,000kmを130日で走破。こうして、スペイン、メキシコ、フィリピンを結ぶ往復の航路が完成した。時に中国は、銀の大消費国になっており、往路にメキシコ銀、復路に香辛料、それに加えて生糸、絹製品、陶磁器などが運ばれ大いに栄えアカプルコ交易と呼ばれた。
ついでに言えば、このような下地があってアメリカへの移住者が当ても無く西へ、西へと開拓していったわけではなく、もちろん未開の地がそこにあったことにもよるが地の果てには、交易港も可能であるという新興国としての夢もあったかもしれない。
すると、マニラは、ポルトガル全盛時に既に世界的規模だった日本の石見銀山を含め東西の交易の十字路となって世界有数の交易港となった。
1613.10.28徳川家康の許可を得て、伊達政宗は、今の宮城県石巻港からスペイン人の協力を得て建造させたガレオン船(スペインの国家機密)でスペインへ使節団を送る。
1614.1.28 アカプルコ入港、
10.5 大西洋横断の後スペイン南部到着
1618.4.2 アカプルコ出航
8.16 フィリピンのマニラ着
1620.9.20 道の島を通って(通ったはず)日本へ帰国
◎この頃に道の島は、世界的な道の島になっていたのではないか。
喜界島は、大圏航路の上の寄港地、あるいは前線基地として栄えなかったか、それゆえ大宰府の出先機関のように発展したのではないか、さらには、それ以前に南海貿易の中継基地としてある集団が大勢で移住してきたか、その場合東シナ海側の「津」もすでに重要な基地とだったはずである。そうすると平家伝説と符合して面白い。1523にニンポウで大内氏と細川氏が戦い大内氏が勝利し交易を独占する。その敗者の細川氏が別ルートを開拓してたりして?
集団移住は、聖徳太子の頃の大陸からの技術者集団の移住の例があり可能性はあると古代妄想している。
ご覧頂きありがとうございます。
こまめに思いを伝えたいのですが、思うにまかせせん。
人は、経験を積めば、もしくは、残り時間が少なくなれば余分なものに諦めがつき
表現を変えれば、「これだけは、生きた証に表現しておきたい」というものに巡り合う。
それは、考えてみれば、「思い」から「信念」に変わる、「覚悟」を決めることのようである。それを『宿命』とか『ミッション』とか言う人達(と感じる人達が確かにいる)もいる。
私の場合は、ウィンドサーフィンで島から島へと最長40kmを横断した経験、クルーザーによる島周遊、先祖からの伝承、この地の歴史などから考古学では、想像が難しいと思われる海からの視点で、島々を結ぶ「道の島」というものを捉え、思いを発信することにした。
海人の体感で、海道を検証するのである。
古代妄想?と言う人もあろうことを承知で、名づけて、「プリムヌ 海道を行く」とする。 シマのいぶきへどうぞ
現地に行けば分かることがある。不思議と縁があるのか道が開けることもある。今回の道の島をたどる旅は、正しくそれであった。
考えてみると、縁とは、「情報」でそれを運ぶのが人 「出会い」であり、あるいは、巡り会った土地・時空かも知れない。

立神 海道に現れるこの名は、神話に出てくるものの変化と思われるが、海路の道標でありもしかしたら中国人船長や海人達の呼び名に後に天皇命の南下政策による命名か?日本にもジャンクや西洋船また和船の長所を取り入れた航洋船があったが鎖国で衰退したといわれる。何故伝承されなかったか、それは船乗りに中国人を雇っていたからということらしい。あるいはイトマン人などの一部の日本人も含まれるのではないか?

道の島から北上し、鹿児島湾(錦江湾)に近ずくと開聞岳が見えます。これが、船乗りの目印だったことは疑いないと思う。しかも、大隈半島でなく、薩摩半島に古くからの湊があるということは、東シナ海側を北上したいための寄港地ということ。
京に直行するより、韓半島・大宰府が目的地ということであり、種子島の役割が後退したことと関係するのではないか。
山川港には、記録に残っているだけで千回近く琉球の使節団が来航している。一般貿易船の往来も多かった。西南の役の戦没者招魂塚は、琉球人墓を撤去して造られていることが判明。埋葬された人々は、500に上ると言う。
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